カートをみる マイページへログイン ご利用案内 お問い合せ サイトマップ
RSS
 

鮭の種川を作った青砥武平治

鮭の種川を作った青砥武平治

なぜ村上が「鮭のまち」なのか。
それは、村上の人々が 古くは平安の昔から鮭とともに歩んできたからです。 
朝日岳を流れの源とする村上の三面川の清流は、全長41キロ。
越後平野をゆったりと流れ、ここ村上で日本海に注ぎます。

三面川

三面川は 古くから鮭の遡上する川として地元に豊かな収穫をもたらしてきました。
しかし自然に頼る鮭漁はやはり不安定なものですが、安定した漁獲高を保つための画期的な方法を
考え付いたのが江戸時代の村上藩士・青砥武平治です。 

鮭は川に上って産卵し、孵化した稚魚は海に下って成長します。そして三、四年荒波にもまれ成魚となり、一万数千Kmもの長い旅をして秋、産卵のためにまた故郷の川に戻るという習性をもっています。
川にはそれぞれ土地固有の有機物・無機物が溶け込んでおり、鮭は臭覚で自分の生まれた川を識別していると言われています。
約250年前、この「母川回帰性」を世界で最初に発見したのが村上藩士 『青砥武平冶』でした。

青砥武平冶は帰ってきた鮭が安心して産卵できるよう、三面川に産卵のためのバイパス、
すなわち「種川」を作って鮭の産卵に適した環境を整えようと考えました。
産卵に適した条件は川底が小砂利で鮭が産卵床が作りやすい、
生んだ卵を外敵から守れる、また湧水などで水温が安定し新鮮な水が供給されることなどです。

村上藩ではこの青砥武平冶の考えを採用し、彼の設計/指示により鮭保護増殖のため
実に三十年以上をかけ河川整備を行い「種川」を完成させました。

村上藩がこの大工事に取り掛かったのが宝暦13年(1763年)、完成は青砥武平冶没後6年を経て、寛政6年(1794年)とされています。

青砥武平冶以来、「種川の制」によりサケは次第に増え、豊漁がつづき、村上藩に納める運上金も最初は40両程度でしたが1800年頃には1000両を超えるまでになりました。
これが村上藩の財政に大いに寄与いたしました。

江戸時代このように積極的に鮭の増殖に力を入れた川は他にはありません。
その後村上では、明治11年アメリカの孵化技術を取り入れた日本初の人工孵化に成功。
それによって得た財源を旧士族達の子弟教育に使い、
そのことから立身出世した人を「鮭の子」と呼ぶようになりました。
減少していた鮭の遡上数も、明治17年に73万7千378尾を記録するまでに増えました。
これは、単一河川では日本の最高記録になっています。
獲れた鮭から採卵をして、白子をかけ受精させ、育養所と県の孵化場で育てたり,
県内の各孵化場に受精卵を送るなど、三面川は文字通り県内の鮭の親川と言えます。

三面川
平成25年は青砥武平治、生誕300年です!

 

越後村上うおやのが紹介されました!

鮭販売
鮭販売

 

鮭通販

ページトップへ